電力ロビー

昨日、突然、共同通信の記者から、「2003年福井県知事選挙の際の話を聞きたい」と取材を受けた。『脱原発』を掲げて知事選を戦った僕の陣営に対して、関西電力からどのような圧力を受けたか知りたいとのことだった。「高木を応援するなら、今後、仕事を出さない」などの恫喝を原発立地地域を中心に広範に行ったことや、選挙妨害を行ったのは、関西電力だけでなく、沖縄電力を除く全国の9電力会社であると聞いているが、この手の工作は巧妙に行われるのでなかなか証拠を入手できないと答えたら、「そうなんですよね」と肯いていた。2004年に飯田哲也さんの誘いを受けて、ドイツのボンで開かれた自然エネルギー国際会議に出席した時、脱原発を主導したトリッテン環境相にレセプションで、「日本で原発が最も多い福井県で電力会社と6年間戦っている」と語りかけたら、「僕は20年戦っている。6年どころではまだまだ足りない」と言われたのを思い出す。日本社会でもようやく電力ロビーの存在とその影響力が注目されるようになってきたのはエネルギー政策転換への第一歩と言えるだろう。

「脱原発」か「原発維持」かという神学論争

管首相がついに「脱原発」を打ち出した。もっと議論を尽くすべきだと新聞などで批判されているが、「脱原発」か「原発維持」かという論争は、いわば、どの神に仕えるかという神学論争なので、ボトムアップ式の議論にはなじまない。どちらの神にするかは、最終的には、民意に委ねるしかない。その意味では、「脱原発」解散は正しい政治的判断だし、いまの日本社会にとって必要なものだと思う。また、今のタイミングを外しては、日本社会全体としての選択はできない。「脱原発」により産業空洞化が進むと批判されているが、いずれにせよ、新興国の経済成長に押されて、産業空洞化は進む。今回の震災と原発事故はそのタイミングを早めたに過ぎない。したがって、今後、かなりの産業空洞化が進むことを覚悟したうえで、日本経済および社会全体の「スマート化」を早急に進めるべきだ。ある意味では、非合理な政治的な圧力がかからないと、日本社会は大きく変われない。黒船や敗戦もそのような外圧だった。今回の震災と原発事故も日本社会の変革を促す外圧として、活用すべきだと考える。

苦力国家

円がほとんどの通貨に対して円高となっている。放射能汚染に電力​不足と良い材料が一つもない円がなぜ、買われるのか。欧州はギリ​シアに始まる財政不安、米国は先週の雇用統計発表で明らかになっ​た景気回復の脆弱さと、欧米に比べれば、まだ、日本がましと思わ​れているようだ。もっとも、ましと思われているのは、日本の政治​ではない。何があっても、もくもくと仕事に励む日本の製造業が​ましと思われているのだ。その日本の製造業も、アップルに代表さ​れるグローバル知識製造業の下請けに甘んじざるを得ない状況に陥​っている。努力しても努力しても、そこそこ評価されるが、一流にはなれない苦力国家に日本はいつなってしまったのか。

「脱原発」をめぐる対立軸

管首相の苦し紛れの延命策と言われながらも、原発の再稼働をめ​ぐるストレステストの導入で、「脱原発」 vs.「原発維持」という対立軸ができつつある。再稼働をめぐり、あえて海江田経産相と対立してみせたことで、敵は産官複合体の中にある「原子力ムラ」であることを示すことができた。しかも、九州電​力のやらせメール事件のせいで、原子力ムラの住人が姑息で卑怯であるというイメージが次第に浸透している。また、経団連の米倉会​長が管首相の術中にはまって守旧派丸出しの対応をするので、経済​界の中でもソフトバンク孫社長楽天三木谷社長など脱原発派​との対立の構図が鮮明になってきた。管首相は「郵政」を上回る政治鉱脈を掘​り当てたといえよう。「脱原発」解散の可能性は急速に現実味を増​している。

サマータイム

昨日、3時半頃、クライエント企業を訪れるために、品川駅を降りたら、いきなり若い女性に居酒屋に勧誘された。「サマータイム狙いですか」と聞いたら、「そうです」とのこと。サマータイムで退社した社員と間違われたようだ。浜岡原発の停止と7月1日から始まった15%節電で関東・中部圏の企業ライフが様変わりしている。先日、訪れた大手カメラメーカーは7時半始業、4時終業だった。会社にいることそのものが善とされた価値観からの脱皮は喜ばしい。遅まきながら、今回の震災をきっかけに、工業社会に合ったライフスタイルから知識社会に合ったライフスタイルへの転換が行われるとしたら、一歩も二歩も前進ではないか。

謹賀新年

明けましておめでとうございます。

晦日から3日まで鯖江の実家でのんびりしていた。といっても、3日は、11月に報恩講回りが出来なかったので、遅ればせながら、檀家の皆さんのところに報恩講回りをしてきた。報恩講とは、浄土真宗の大事な行事で親鸞聖人の命日に聖人のご恩に感謝するというものである。本当の命日であるご正忌は1月16日なのだが、北陸地方は雪を避けて11月に行われるようになったのではないかと推察している。

お正月に迷惑かなと思いながら伺ったが、意外と(?)歓迎された。住職の活動は、政治活動とも、また、ビジネスとも異なる満足感がある。親鸞聖人の教えを通じて、様々な人とつながることのできる喜びとでも言おうか。ご家族の死をどう受け止めて良いか戸惑っている方の気持ちを少しでも楽にしてあげることができるのは有難いことだと思う。

発足4か月で早くも危険水域に陥っている鳩山政権については、後日、書くことにしたい。

日米関係について

 ご無沙汰していて申し訳ない。
 普天間基地移設の問題やオバマ米大統領の訪日などで、日米関係について色々と議論が喧しくなっているので、日米関係についての考え方を整理しておきたい。
 まず、鳩山政権の「対等な日米関係」という目標だが、「対等な日米関係」を目標に掲げるところに、「分かっていないなぁ」と思ってしまう。なぜならば、日米関係は本質的に対等でないからだ。
 もっとも、どう対等でないかという点にパーセプションギャップがある。鳩山政権のスタンスは、日本はこれまで対米追従で、日米関係はどちらかと言えば米国に都合のいいものだというものである。しかし、実際は、日米関係は本質的に日本にとって都合のいい、言い換えれば、一方的に日本に有利な関係なのである。
 もとより、日米関係の本質は軍事同盟である。かつて、鈴木善幸総理が「日米関係は軍事同盟ではない」と発言して、政権崩壊のきっかけを作ったことがあるくらいだから、政治家の間でも日米関係が軍事同盟であるという認識は薄い。しかし、日米関係の本質は軍事同盟であり、この基本的な出発点を忘れると、議論がどんどん変な方向に行ってしまう。
 では、どういう軍事同盟なのかというと、日本が攻撃された場合は、米国は日本を守る義務があるが、米国が攻撃されても日本は米国を守らなくても良いという、日本にとって極めて都合の良い軍事同盟なのである。
 人間関係でも、商売でも、国と国との関係でも、どちらかに一方的に都合の良い関係は長続きしない。この点を心配した岸信介総理が日米安保条約をそれまでの片務的なものから、より双務的なものに変えたのが、1960年の日米安保改定である。といっても、戦争を放棄した憲法9条の問題があるから、「米国が攻撃された場合に、日本は米国を守ります」とまでは踏み込めない。その代わりに、日本国内に米軍基地を置いても良いですよ、その負担も日本が負いますよ、としたのである。
 鳩山総理は日米安保50周年を契機に日米関係を検証するとしている。日米関係を本当に対等にしようと思うのならば、米国が攻撃された場合には、日本も米国を守る義務を負うことにするか、日本が攻撃されても米国は日本は守らなくても良い、つまり、同盟関係を解消するということになる。
 集団的自衛権を否定している鳩山総理の立場からは、米国が攻撃された場合に、日本が米国を守る義務を負うという選択肢はあり得ない。そうすると、日本が攻撃されても、米国は日本は守らなくても良いですよ、ということになるのだろうか。冷戦が終わり、米ソ対立による世界戦争の脅威は激減したが、北朝鮮による核武装や中国の軍事力拡大などの脅威は依然として残る。こうした脅威に、日本はこれまでのように日米軍事同盟ではなく、独力で対抗しようとするのだろうか。
 いや、日中間で軍事同盟を結ぶということになれば、対米追従が対中追従に変わるだけの話である。しかも、中国が攻撃された場合に、日本が中国を守らなくてもすむような都合の良い軍事同盟を結べる保証はない。仮りに結べたとすれば、その場合は、日本は中国の属国のような存在になるだろう。果たして、そのような日中関係に日本国民は耐えられるだろうか。
 日米関係を考える場合は、日米関係は本質的に日本にとって極めて有利な軍事同盟であるということを忘れてはならない。