東京への引越し

 一昨日、東京に引っ越した。ところが、昨日の送別会に合わせて、とんぼ返りして、福井に戻ってきた。明日(14日)の檀家の法事を済ませてから、夕方、東京に戻る。以下は、昨日の送別会での挨拶である。

 『昨日、東京に引っ越しました。今日は、皆さんにお別れの挨拶をするために戻ってきました。

 正直言って、こんなに早く、お別れすることになろうとは思っていませんでした。県議会は予想以上に快適なところでした。「ここは会員制のクラブか」と思えるほど議会事務局の方々は献身的に支えてくださいましたし、優秀な県庁職員の方々と政策について議論するのは楽しいひと時でした。「一人でも最大野党」のはずが最大会派の分裂のお陰で、連立与党の一員として歴史的な議会改革のプロセスに参加できたのも幸運でした。また、その時々の政局について記者の方々と意見交換するのも有意義でした。もはや、こうした幸福な時間を皆さんと共有できないと思うと、少なからず残念な思いに駆られるのですが、今回の政治行動について何ら後悔はしていません。

 なぜならば、この1ヶ月の政治行動で、県会議員としての残りの任期を全うするよりも、明確な政治的なメッセージと政治的インパクトを残すことができたと信じているからです。

 この10年間の政治活動の中で、私が一貫して訴えてきたのは、八方塞がりの「この国のかたち」に代わる、新しい「この国のかたち」を福井から発信しようということです。

 これまでの「この国のかたち」とは、東京にお金の稼げる人が集まって、そこで稼いだお金を地方にばら撒くというものです。ところが、国と地方を合わせて1000兆円もの借金ができて、これまでのように国から地方に仕送りができなくなっています。

 私が提唱する、新しい「この国のかたち」とは、大海に出たサケやマスが子どもを産む頃になると故郷の川に戻るように、都会に武者修行に出かけた子どもたちがスキルを身につけて故郷に戻り、愛する家族や仲間のために力を発揮するような社会です。国から地方への仕送りを減らすのならば、都会に出稼ぎに行った子供たちを故郷の地方に返して欲しいのです。

 この新しい「この国のかたち」と表裏一体なのが、工業社会から知識社会への転換です。グローバル化が進む中で、知識社会への転換を進めなければ、その地域はグローバル競争どころか地域間競争でも負けてしまいます。そして、知識社会への転換に不可欠なのが、都会に武者修行に出かけて知識ワーカーになった子供たちなのです。

 工業社会から知識社会への転換を進めるためには、意思決定の方法、即ち、政治や選挙のあり方も変える必要があります。工業社会では特権階級(官僚や政治家)が資源配分の主導権を握っていますが(投票も重要な資源です)、知識社会では特権階級ではない無数の個人の自発的な選択が資源配分の主導権を握ることになります。したがって、工業社会(=統制経済)で行われるのが組織型選挙ならば、知識社会(=市場経済)で行われるのは草の根ボランティア選挙です。言い換えれば、組織型選挙を続けている限り、個人の自発的な選択が尊重される知識社会への転換は無理と言えます。

 今回の選挙では、依然として、ほとんどの自治会が強制的に対立候補を推薦させられ、回覧板で選挙資料を配布させられたり、多くの企業で社員を無理やりバスや車に乗せて期日前投票に行かせたりする常軌を逸脱した組織型選挙が行われていることが明らかになりました。このような上意下達の選挙のやり方は、北朝鮮やロシアで行われている選挙と何ら変わりません。

 もはや、「勝てば官軍」と手放しで喜べる時代ではありません。時代錯誤の官軍を打ち負かす民軍が育っていないことこそ悲しむべきなのです。愚民政策とも言うべき、このような愚かな政治や選挙を続けている限り、福井の将来は暗澹たるものになると言わざるを得ません。今回の選挙で、一人でも多くの方が、福井のこうした現状に気づき、これではいけないと立ち上がる人がいれば、10年間の私の政治活動も無駄ではなかったと言えるでしょう。

 私は10年間の政治活動に終止符を打って福井を去りますが、私がこの10年間の政治活動で始めた物語は終わったわけではありません。なぜならば、政治活動は人間関係の網の目という環境の中で行われるからであり、こうした環境の中では、一つ一つの反動が一連の反動となり、一つ一つの過程が新しい過程の原因となるからです。つまり、私は物語を始めることができても、物語を完結することはできません。また、残念ながら、私が始めた物語がどのように語られるかを決めることもできないのです。私にできることは、この10年間の政治活動がきっかけとなって、遠くない日に、特権階級の都合ではなく、市民の常識で動く政治が実現し、新しい「この国のかたち」がこの福井の地から発信されることを祈るばかりです。』