相次ぐ知事の逮捕

しばらく日記を更新しなかったことで、多くの方にご心配をおかけしたようだ。また、様々な政治的な憶測も呼んだと聞く。4月から始めた「昭和が見える食卓風景」の商品を東急ストアプレッセで扱っていただくことになったので、川崎魚市とのやり取り、新しいパッケージデザイン、JANコード(バーコードと同じもの)の取得、売り場のポップ作成などに追われて、落ち着いて日記を書いていられなかったのである。

同じ日記をコピペしているMixiで、最近の政治についての考えを日記で書いて欲しいと要望があったので、知事の逮捕について感じていることを書いてみたい。

まず、第一に、日本はどこまで行っても談合社会だということである。改革派と呼ばれた福島県の佐藤知事や和歌山県の木村知事が公共事業をめぐる談合に絡んでいたのだから、ほとんどの都道府県知事や地方自治体の首長が公共事業をめぐる談合に絡んでいると考えて良いだろう。捕まるかどうかは、やり方の巧拙に加えて、検察及び警察側の裁量次第ということなのだろう。日本が談合社会であるのは、公共事業についてばかりではない。この点については、後で詳しく述べたい。

第二に、知事や首長が公共事業をめぐる談合に関与するようになるのは、選挙で有形無形の様々な債務を負わされるからである。知事選挙を2回、市長選挙を1回戦った僕自身については、選挙資金のほとんどが個人献金で賄われているため、道義的な債務は別にして、金銭的な債務はあまり抱えていない。しかし、地方で戦われる多くの首長選挙で多額の裏金が動いていることはいわば公然の秘密である。知事や市長の給料で到底返済できる額ではないので、仕方なく、談合に絡まざるを得ないというのが実情であろう。

第三に、今回の知事の逮捕そのものが自民党と警察との談合の結果ではないかということである。佐藤・福島県知事や木村・和歌山県知事は改革派知事と呼ばれた知事である。中央にとって邪魔な知事は排除しようと狙い撃ちしたのではないか。日本は法治国家のようでいて、実は発展途上国とあまり大差ない談合国家である。簡単な例を挙げると、高速道路の制限速度は80キロだが、120キロまで出してもスピード違反でつかまらないのは日本の常識である。しかし、「あいつはけしからんから、逮捕してやれ」と警察が100キロで走っている車をスピード違反で逮捕しても、法律上は文句が言えない。

公共事業の談合にしても、程度の差はあれ、実はほとんどの知事や首長がやっているが、警察は大目に見ている。ところが、「この際、あいつらを潰してやろう」と狙い撃ちされれば、「それは話が違うだろう」と逮捕されても文句は言えないどころか、「お前も所詮、同じ穴のムジナだったのか」と世間の糾弾を受けることになる。

だったら、80キロで走っているのが一番、安全なのだが、80キロで走っていては競争に勝てない。だから、120キロで走る。すると、大目に見てもらうために、お上に楯突かないというのが暗黙の条件である。お上に楯突くと、途端にルールが厳しくなって、逮捕されるというのが日本社会だ。

正直なところ、検察・警察当局は一体どういうつもりなんだろうかというのが率直な感想である。一罰百戒から一斉逮捕に転じたなどと報じられているが、にわかには信じられない。安部政権の基本戦略は成長路線とのことだが、経済、特に知識経済が成長するためには、公正な市場と公正な社会が必要である。相次ぐ知事の逮捕が何を意味するのか、僕はまだ判断を下せずにいる。