相次ぐ知事の逮捕(その2)

昨日は、相次ぐ知事の逮捕に関して、日本の談合社会構造について感想を述べたが、こうすべきではないかという「あるべき論」を書いていないので、今日は談合問題について、明日は知事の独裁的な権力について、私見を述べてみたい。

まず、談合問題について。談合というのは話し合いのことであるが、より正確には、本来、公開の場で決められるべきことを、密室の中で一部の利害関係者が決めてしまうことを意味している。そして、具体的には、公共事業の入札に関して、誰がいくらの入札価格で落札するかを関係者の間で決めてしまうことである。

公共事業の談合が良くないとされるのは、公正な競争が行われて決まる入札価格よりも割高に入札価格が決められるからだ。割高になった部分、税金が多く使われるわけで、一部の利害関係者が不当な利益を得ていることになる。だから、談合は良くないというのが公正取引法上の理由である。

公共事業をめぐる談合については、公正取引法が改正されたことで、より取り締まりが厳しくなった。今回の一連の知事の逮捕は、その表れとされるが、果たして、額面通り受け取って良いのか、さらにその裏に、別の談合があるのか判断がつかないことは昨日書いた通りである。尤も、仮に、今回の知事の逮捕の裏に別の談合があるにせよ、一般的には、公正取引法の改正による取締りの強化で、公共事業の談合は減っていくことだろう。

もっと問題なのは、日本社会に深く根付く談合体質である。僕が外務省で働いている頃、アメリカやヨーロッパ諸国との経済摩擦の真っ只中で、「日本市場は閉鎖的だ」という批判にさらされていた。そこで、我々は矢面に立って、「いや、日本の市場は開かれている。売れないのはあんたたちの努力が足りないからだ」と主張していた。

ところが、外務省を辞めて、ニューヨークで弁護士をしてから、日本に帰ってきてみると日本社会の閉鎖的なのには心底驚いた。これは、僕がいまだにいわば「外人」扱いされているから気がつくことかもしれない。日本社会の正規メンバーにとっては、日本社会は極めて居心地のいいところだし、外から閉鎖的と思われていることも意外に思っているのではないか。

まず、はじめに、外国法事務弁護士としての登録問題があった。詳しい話はややこしくなるので省くが、日本弁護士会が入会を認めてくれない限り、外国法事務弁護士として法務省に登録できないという問題があった。すったもんだの挙句、正面突破が面倒くさくなって、東京の大手弁護士事務所を共同経営している大学の同級生のところに相談に言ったら、「何だ、お前か。もっと、早く言ってくれよ」とすんなり認められた。

あれだけ入会に抵抗した日本弁護士会だが、入会してしまうと至れり尽くせりですこぶる居心地がいい。要するに、日本社会はウチとソトの区別が強く、一旦、ウチに入ってしまうと居心地が良いが、ウチに入れてもらえないソトの人間には見えない壁が立ちはだかっている。これが日本社会の談合体質を生む所以であろう。

「だったら、ソトにいないで、ウチに入ればいい」というのは、ウチに入れるツテのある個人にとっては解決方法になっても、社会全体にとっては解決にならない。

結論から言うと、日本社会の談合体質は、仲間内では都合が良いし、居心地が良いが、グローバル経済の中で日本社会の競争力を奪っている。グローバル経済の必勝パターンは、国籍を問わず、とにかく人と金を集めることである。グローバル経済の中では、世界中から人と金を集めた国や地域が繁栄する。アメリカのお家芸だが、中国がすっかり真似して大成功を収めている。

国籍の違う人や金にとって信じられるのは明文化されたルールだけである。ところが、明文化されたルール以外にその土地の人間にしか分からない暗黙のルールがあったり、明文化されたルールを破っても政府が取り締まらなかったら、恐くて、とてもリスクを取れなくなる。つまり、日本社会の談合体質は、ソトから見て、人や金の投資リスクを高めているのである。

幸い、日本の経済界はグローバル化の波にさらされて、こうしたことが当たり前になってきている。だからこそ、グローバル経済の中で見事に復活しえたのであろう。問題なのは、談合体質が抜けきれない政治と行政の世界である。今後、談合体質を引きずる政治や行政を抱える地域は、どんどんグローバル化の中で遅れを取っていくであろう。

政治や行政に携わる人間は、公正な市場と、これを支える公正な政治・行政こそが、グローバル経済の中での繁栄をもたらすインフラであることを認識すべきである。