裁判員制度について

 最高裁違憲判決について書いたら、裁判員制度についての書き込みが続いたので、簡単に裁判員制度について説明しておきたい。

 裁判員制度というのは、市民が裁判員として刑事裁判に参加するというものである。制度の目的としては、次の2つがあるように思う。

 1つは、裁判に市民の常識を反映させようというものである。その前提として、日本の裁判官には広い世間の常識が欠けているのではないかという批判がある。確かに、日本の判決には首を傾げたくなるものが多い。日本の裁判官は純粋培養のためか、法律のことしか知らない専門馬鹿が多く、広い視野が欠けているうえに、変に世論に迎合するところがある。昨年のブルドックソース判決はその代表例である。

 そのくせ、政府に反する判決を出すと出世できないと思って権力べったりの判決しか出さない。これでは何のための三権分立なのか分からない。

 司法判断に市民の常識を反映させるには、刑事事件でなく民事事件にも裁判員制度を広げるべきだと思うが、初めてのことであるので、取り敢えず、あまり専門的な知識が必要とされない刑事事件に限定したのであろう。

 もう1つは、市民に統治行為に参加してもらって、自分が主権者であることを自覚してもらうことである。ちょっと脱線するが、イギリスにパブリック・スクールと呼ばれる学校がある。直訳すると公立学校であるが、イギリスのパブリック・スクールは私立である。

 もともと、イギリスでは貴族の子弟しか教育を受けられなかった。ところが、産業革命が起きて、ブルジョアジーが台頭すると、自分たちの子供たちにも教育を受けさせようと、ブルジョアジーがお金を出し合って作ったのがパブリック・スクールである。つまり、パブリックとは本来、自分たちのことである。

 自分たちに共通の問題を身銭を出し合って解決するのが、民主主義の本質であり、市民が主権者であることの意味である。ところが、日本ではパブリック(=「公」)というと、お役所が税金を使ってやることになってしまっている。

 こうしたパブリックに対する日本人の意識を変えようという試みが裁判員制度の導入である。

 ところで、アメリカでは陪審員になるのは市民の義務と考えられている。アメリカにいる時、外国人の僕にも陪審員になりなさいという通知が何度も来て驚かされたが、自分には関係がないと放っておいたら、突然、「逮捕する」という通知が来たので、慌てて、裁判所に出かけて行って、自分は外国人であって、しかも、弁護士であるので、陪審員になる資格がないと釈明したことがある。また、アメリカの職場では、陪審員になるために明日からしばらく休むという職員がいると、皆で「市民の義務を果たしてきてください」と快く送り出していた。

 もう一つ、同じような趣旨の制度として、アメリカでは国民全員に確定申告を義務付けている。お陰で締め切りの4月15日近くになると、毎年、これは気の狂った制度で改めるべきだという合唱が全国から沸き起こるが、この制度の趣旨は国民全員に自分はTax payerだという納税者意識を徹底させることである。これも国民の主権者意識を育てるのに大きな役割を果たしている。

 日本の場合は、効率性を重視するあまり、こうした形での民主主義のコストを払うことをしてこなかった。そのツケをいま、民主主義の機能不全という形で払わされているのではないだろうか。