土手刈り

先週末、5ヶ月ぶりに福井に帰った。毎年、恒例の土手刈りに参加するためである。

土手刈りというのは、実家の鯖江下新庄で毎年6月末の日曜日に行われる川の土手の草を刈る作業である。集落の各戸から1名ずつ参加するのが義務付けられている。僕が参加しないと80近い母が参加しなければならなくなるので、僕が参加せざるを得ない。以前、スペインの松下電器で働いていた人が土手刈りに参加するために、毎年、この時期に合わせて帰国していたこともある。

暑さを避けるために朝の6時から8時にかけて集落が総出で一斉に土手を刈る。班ごとに担当の地区を決めるので、どの班が早いかという競争になる。幸い、僕の班は草刈の機械の所有者が多いためか、いつも1時間余りで終わってしまう。この10年間、毎年参加しているお陰で僕もすっかり草刈機の使用に習熟した。

ところで、この土手刈りも公共事業の一種である。前回書いた「自分達に共通の問題を身銭を払って解決する」民主主義の典型例である。こうした共同作業の起源は随分古いと思われるので、日本の地方のムラには昔からこうした形での民主主義が存在していたことになる。

ただし、土手刈りの参加はあまり自発的なものでなく、「村八分」を恐れての半ば強制的なものである。ムラで行われてきた民主主義は、あくまで「長いものに巻かれろ」という民主主義なのである。

土手刈りを終えた日曜の午後は、ちょっと早い檀家のお盆回りを済ませた。応対してくださる檀家の皆さんはいずれも70代後半の「後期高齢者」の方ばかりである。もっとも、宗教に対する関心はある程度高齢にならないと出てこないのかも知れないが・・・。

さかのぼって、土手刈りの前夜(土曜夜)は、福井市で「昭和が見える食卓風景」の打ち合わせを行ってから、たまたま集まることになっていた後援会の女性たちとの食事会に合流した。皆さん、相変わらず意気軒昂でお元気なのには感心させられた。日本の男性は総じて元気がないのに、どこに行っても女性は元気である。

変わらない地方と高齢化する地方の2つの現実に直面した週末であったが、女性たちが元気なのには救われる思いだった。