新しい「この国のかたち」(2)

続きである。

今日は、まず、都市と地方の格差について書いてみよう。これは、この10年間、僕が政治活動で取り組んできたテーマである。東京にお金を稼げる人が集まって、そこで稼いだお金を地方にばら撒くというこれまでの「この国のかたち」を何とか、変えることができないかと頑張ってきた。

10年間、頑張ってきた感想として、やっぱり無理かなぁと感じている。なぜならば、地方には(福井にはと言い換えるべきか)、知識社会の担い手たる知識ワーカーの絶対量が圧倒的に不足している。さらに、その少ない知識ワーカーを活かそうとしない。活かすどころか、寄ってたかって潰そうとする。知識ワーカーは知識社会における冨の源泉であるから、既得権益を牛耳っているボスたちを脅かす存在である。だから、ボス達とその意向を受けた狐たち(虎の威を借りる狐たちである)が、知識ワーカーを潰そうとするのである。この閉鎖的な体質を変えない限り、知識ワーカーの流出は止まらない。

地方から都市への知識ワーカーの流出に拍車をかけたのがグローバリゼーションだ。この20年間で最もグローバリゼーションの果実を享受したのは、ニューヨーク、ロンドン、上海、北京、そして東京などの大都市であることは疑いを容れない。昨年来の世界同時不況の中で、都市と地方の格差が全世界的な政治問題となり、旧来的なばら撒きが復活しようとしているが、これは本質的な解決ではない。

これまでも口を酸っぱくして言ってきているが、地方社会の担い手がグローバリゼーションと知識社会化に本格的に取り組まない限り、都市と地方の格差は広がるばかりとなろう。霞が関の発想としては、47都道府県の県庁所在地をすべて活性化するのは無理なので、道州制に移行したうえでその中心地(北陸では金沢市新潟市)の都市化に力を注ぐというものであろう。ちなみに、僕が提唱したのは、都市化が唯一の解決方法ではないというものだ。環境志向になりつつある新世代の知識ワーカーを呼び込むことに力を注ぐべきだと訴えてきたが、ほとんど理解されなかった。

次に、自由主義について。いまの日本の状況は、ファシズムに走ったドイツ国民の社会心理を見事に分析したエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」の状況に酷似している。圧政や弾圧の中では、人は束縛からの解放を願って自由を希求する。しかし、一旦、自由を手にすると、自由と表裏一体になっている自己責任の重さと将来の不安に耐えかねて、たとえ自由を失っても強力なリーダーの下での安定を求めるという。当時のドイツでは国会社会主義(ナチズム)を唱えるヒットラーを信奉して、破滅への道を突き進んだ。現在の日本のマスコミの論調は、小泉元総理と竹中元総務省が進めた自由主義的経済政策を糾弾するものが多い。確かに、自由主義の行き過ぎともいえる市場至上主義が世界的な金融危機を生んだのは事実であるが、日本における自由主義はまだまだ脆弱であるというのが僕の率直な感想である。より本質的には、日本社会では、いまだに民主主義や自由主義がきちんと理解されているとは思えない。大衆に迎合するワイドショー的ポピュリズムに走らずに、民主主義や自由主義をもう一度学びなおすときではないかと考えている。

今日は、このへんまでにしておこう。