「市民の常識」について

 前回のブログで「市民の常識」と書いたことについて、思いがけず、色々なコメントが寄せられたので、僕の考えをもう少し詳しく書いておこう。
 まず、ある特定のモデルに代表される「市民」なるものが存在しないことはその通りである。
 おそらく、Cさんであると思われるが、「社会契約論」を持ちだしているのは慧眼である。
 なぜなら、「市民の常識」はルソーが社会契約論の中で唱えている「一般意思」を想起させるからだ。ルソーは、個別意思の集合である全体意思と、一人ひとりが利己的な考えを捨てて全体のことを考えて到達する「一般意思」は異なるという。そして、ある特定の利害を代表するべく選ばれた議員による間接民主主義では多数決による全体意思しか実現しないので、全員が納得するまで話し合って「一般意思」に到達しうる直接民主主義の方が良いと結論づける。
 このルソーの考え方をさらに遡ると、プラトン哲人政治がある。衆愚政治を克服するためには、真理を極めた哲人による支配しかないというものである。
 ところが、この考え方を突き詰めていくと独裁主義に陥ってしまう。フランス革命直後のロベスピエールによる独裁に始まって、ヒットラースターリン毛沢東の独裁の根底には、「国民にとって何がベストか一番よく分かっているのは自分である」という独断があるのである。一時の狂気による多数の独裁もあるが、「国民とは私である」と宣言するカリスマによる独裁もあることを歴史は教えてくれる。
 したがって、僕はこの考え方、つまり、「一般意思」=「市民の常識」という考え方には組みしない。
 むしろ、「市民の常識」は、多様性の中から自然に集約されてくるものだと思う。
 譬えてみれば、インターネットにおけるウィキペディアのようなものとでも言っておこう。ウィキペディアというのは、誰でも書き込めるインターネット上の百科事典のことである。「高木文堂」と検索すると、誰が書きこんだのか、ウィキペディア上に僕についての書きかけの項目がある。ご丁寧にも「政界から引退することを明言した」と書かれているから、僕に二度と政治の世界に戻ってほしくない福井県内の人物が書いたものであろう。したがって、当然、バイアスがかかっている。しかし、僕がもっと著名な人物で、書き込む人の数が増えてくると、ある常識的な評価に落ち着いてくる。それが「市民の常識」というものではないだろうか。

 僕が「業界の常識」を批判するのは、むしろ、こうした多様性をその旺盛なロビー活動で押しつぶそうとするからだ。一人ひとりは自分の頭で考えているように思いこんでいるが、実はロビー活動に見事に洗脳されていることに気がつかない。要するに、民主主義においては、国民のレベル以上の政府は持てないということである。

 ところで、IQ84を読んで以来、すっかり村上春樹にはまってしまい、先週末とこの週末で「海辺のカフカ」と「ノルウェイの森」を読んだ。こうした作品を通して、「社会の中の個人の自由」に貢献したという理由でイスラエル文学賞であるエルサレム賞を受賞した村上春樹の受賞演説が素晴らしい。(ちなみに、原文の英語(http://www.47news.jp/47topics/e/93880.php)を探しだして、英語で読んだが、彼の英語は素晴らしい。)

 自分が小説を書く目的はただ一つしかない。それは、「システム」から個人の「生」を守るためであるというものである。確かに、システムをいかに改良したところで、個人の「生」を脅かしてくる。「システム」に関心を持つことよりも、個人の「生」に関心を持つことの方が大切かも知れないと、彼の小説を読んでいると思えてくる。