麻生総理の所信表明演説

 麻生総理の所信表明演説を読んだ。仕事中に聞いている暇はないので、夕刊に掲載されている演説の全文を読んだのである。
 色々と気づかされることがあった。
 まず、演説の全文が夕刊に載っているということ。通常ならば、朝刊のタイミングだが、夕刊のタイミングで載るということは、所信表明演説を行う前に、マスコミ各社に演説の原稿を配ったということである。通常、政治家は自分が演説を行う前に原稿をマスコミに配るのは嫌がるものだが、敢えて、そうしたのは、マスコミを味方につけようという思惑がある。狙い通り、夕刊の記事も好意的である。麻生政権は、かなりマスコミ操縦術にたけていると見るべきだろう。
 次に、演説そのものであるが、思わず引き込まれて、所信表明演説の全文を読んでしまった。これは、役人時代も含めて、初めてのことである。それだけ、読みやすいし、面白い。政治家にとって、本来、言葉は命のはずであるが、自分の言葉で語れる政治家はほとんどいない。政治に言葉を取り戻した総理という意味では、中曽根元総理以来ではないだろうか。中曽根元総理と異なるのは、文章の短さである。雄弁家と呼ばれるアメリカの政治家の演説の文章もおしなべて短く、さすがに、英語が分かる麻生総理らしい。
 こうして見てくると、満を持して総理になったというやる気と自信に満ち溢れている。最近の政治は馬鹿馬鹿しくて、コメントする気もなくしていたが、所信表明演説を読んで、麻生総理の貴族的精神に少しだけ期待する気になった。

福田首相の辞任

 昨夜、帰宅してテレビをつけたら、福田首相が記者会見をしていたので、「これは辞めるんだろうな」と思って見ていたら、案の定、辞任記者会見だった。
 今回の辞任劇を見て、思ったことは次の2つである。
 まず、突然、政権を放り出す総理はいずれも、あまり苦労せずに総理になった人ばかりということである。細川元首相、安倍元首相、そして福田首相は、いずれも時の勢いであれよあれよという間に首相になった。簡単に手に入った総理の座は手放すのも早いということだろうか。これに比べて、死に物狂いの苦労を重ねて総理になった大平元首相は文字通り死ぬまで総理の椅子を手放さなかった。もし、次に麻生さんが総理になるとしたら、この人は総理になりたくて仕方がなくて、ようやく総理になれるわけだから、そう簡単には辞めないということになる。やはり、総理大臣にはどうしても総理になりたい人がなる方がいいのかも知れない。
 次に、福田さんは本当にうんざりしたんだろうなぁという同情である。政治の世界には、妬みや嫉妬から来る誹謗中傷や足の引っ張り合いなど、うんざりすることが山ほどある。昨夜、福井県議会の元同僚と電話で話したら、「政治家を続けるのは、うんざりしている自分との戦いだ」と言っていた。政治の世界は、古今東西、うんざりするものなのか、日本の政界がとりわけうんざりするものなのかは、僕には判断がつかない。
 本日付の日経の「春秋」が、ポイント制が変えた柔道に喩えて、日本の政治も政策の説得力や一貫性より相手を追い詰める粘着力が「有効」で「効果」があるものに変わってしまったと説明している。民主党の小沢代表が見事な一本を取ったわけではないが、福田首相は技を仕掛ける間もなく、試合の途中で息が切れてしまったという訳だ。日本の政治が面白くないのも無理がない。

北京オリンピックの終幕

 暑い夏とともに北京オリンピックが終わった。中国政府にとっては、大成功だっただろう。中国政府が北京オリンピックを通じて世界に伝えたかったメッセージは、「中華帝国復活」ということではなかっただろうか。

 なかでも、チャン・イーモウ監督が演出した開会式は圧巻だった。1万人を超える人間を繰り出したマスゲームは、あえて大量動員することにより、13億を超える人口を擁する中国の底力を感じさせた。大量動員するだけなら北朝鮮と変わらないが、そこにハイテクの演出を加えているので、古代の中華帝国がハイテク武装して、「ハイブリッド中華帝国」として甦ったというメッセージが強烈に伝わってくる。

 反中派として知られる石原・東京都知事が開会式に出席して、「13億の人口のすごさってのはね、ひしひしと感じましたね」「一番感じたのはね、ボランティアの大学生ですね。いろいろ(政治)体制に対する批判はあるでしょうけど、私もいろいろ異論はあるけども、国家社会の前途にね、あの世代の若者が明らかに日本の大学生と違って期待を持っているということに、青春の生き甲斐を感じているということは、聞いてみてもうらやましく感じましたね」などとコメントしている。まさに、勝負あったという感じである。

 北京オリンピックは、「世界が中国を知り、中国が世界を知る」出来事であった。日本国民もようやく、甦った中国を知ったのではないか。と同時に、日本が世界の中で急速に存在感を失いつつある現実も認識したことだろう。

 今後、予想されるのは、失った日本の国際的地位を高めるにはどうしたら良いかという議論である。その際に必ず出てくるのは、2016年の東京オリンピックの招致であり、そのための東京の強化策である。すでに、本日付の日経は、東京五輪への挑戦は、東京をニューヨーク、ロンドン並みの国際金融センターにすることだと論じている。

 つまり、いわゆる上げ潮派(=経済成長派、構造改革派)は、東京をショーケースとした経済成長路線、構造改革路線を推進しようとするだろう。これに対抗するのは、経済格差・地方格差を是正しようとする修正主義路線である。

 昨年夏の参議院選挙における民主党の大勝以来、日本の政局は修正主義路線を基調として動いているが、北京オリンピックを契機として、潮目が変わるのではないかというのが私の見立てである。幕末の攘夷論者も、彼我の圧倒的な力の差を痛感して、開国論者に転じた。

 いまや、縮小するパイの取り合いをしている場合ではない。まずは、稼げる人間に徹底的に稼がせて、パイを大きくするのが先決という路線に振れるような気がする。 

惜しかった清水選手

 昨日、ボクシングのタイトルマッチを観戦してきた。世界チャンピオンの内藤大助が三度目の防衛を果たした試合だが、対戦相手の清水智信選手が福井出身ということで、福井県人で誘い合って清水選手の応援に出かけていった。
 いや、実に惜しい試合だった。9ラウンドまでは判定で清水選手が上回っており、「ひょっともすると勝てるんじゃないか」と身を乗り出して応援していた。ところが、10ラウンドに入って、捨て鉢になった内藤のパンチが当って、ダウン。何とか立ち上がったものの、連打を浴びてKOされてしまった。それまで優勢に試合を進めてきたのに、一瞬でひっくり返されてしまった。ボクシングは怖いものである。若い清水選手は泣いていた。応援していた僕たちも意気消沈。清水選手は才能のある選手なので、これにめげずに再起して欲しいものだ。

最近の労働市場

 現在、働いている会社でポストの空きができたので、この1ヶ月間、人材の採用に携わっていた。この間、色々、感じたことがあるので、簡単にご紹介したい。
 まず、第一に、労働市場が流動化しているということである。人材紹介会社から次から次に人材を紹介されて、世の中にはこれほど転職を希望している人が多いのかと驚いた。
 第二に、日本の大企業は「規格品」を好むということである。日本の大企業は、基本的に、大学に入るまでは2浪まで、在学中は1留までの新卒しか採用しない。ところが、現実には、様々な事情でこうした規格から外れてしまった「規格外」の人たちがいる。こうした規格外の人たちは、往々にして、進取の気性に富んだ個性的な人たちである。知識社会では、むしろ、こうした「規格外」の人たちの方が能力を発揮するような気がするのだが、ほとんどの大企業では、こうした人たちを「規格外」というだけの理由で、採用しないか、採用しても傍流に追いやってしまう。グローバル化が進む中で、企業は知識社会モデルへの転換を求められているにもかかわらず、その人事政策は、相も変わらず、「規格品」ばかり揃えたがる工業社会モデルだということである。
 第三に、若者のブランド離れが進んでいるということである。転職を希望している人たちの多くが一流企業に在籍している。一流企業にいるにもかかわらず、転職を希望している。それはなぜかと言えば、その職場にいても自分があまり成長しないと感じているからだ。言い換えれば、仕事に対する若者の意識が、これまでの「就社」から「就職」に変わりつつある。「名」よりも「実」を取る方向に変わりつつあると言っても良いかも知れない。名のある大企業にいても自分が成長しないと思ったら、さっさと転職するのが最近の若者の気質のようである。
 要するに、雇う側は「規格品」を求めているが、雇われる側は「規格品」はごめんだと言っているのである。つまり、雇う側と雇われる側のミスマッチが起きているから、転職を希望する人が多いのであろう。
 最近の教職員の採用をめぐる不祥事を見ても、もったいない話だと思う。人材がいないのではなく、そこに優れた人材がいるにもかかわらず、採用側の視野の狭量さが原因で採用すべき人材を採用することができない。公正な人事が行われない組織からは、いずれ、採用された優秀な人材も去っていくであろう。
 本来採用されるべきなのに採用されなかった人はお気の毒であるが、視野を広げれば、自分を生かす場所はいくらでもある。むしろ、どうせ自分を生かせない腐った職場に行かずにすんで幸運だったと思えば良いのではないだろうか。

土手刈り

先週末、5ヶ月ぶりに福井に帰った。毎年、恒例の土手刈りに参加するためである。

土手刈りというのは、実家の鯖江下新庄で毎年6月末の日曜日に行われる川の土手の草を刈る作業である。集落の各戸から1名ずつ参加するのが義務付けられている。僕が参加しないと80近い母が参加しなければならなくなるので、僕が参加せざるを得ない。以前、スペインの松下電器で働いていた人が土手刈りに参加するために、毎年、この時期に合わせて帰国していたこともある。

暑さを避けるために朝の6時から8時にかけて集落が総出で一斉に土手を刈る。班ごとに担当の地区を決めるので、どの班が早いかという競争になる。幸い、僕の班は草刈の機械の所有者が多いためか、いつも1時間余りで終わってしまう。この10年間、毎年参加しているお陰で僕もすっかり草刈機の使用に習熟した。

ところで、この土手刈りも公共事業の一種である。前回書いた「自分達に共通の問題を身銭を払って解決する」民主主義の典型例である。こうした共同作業の起源は随分古いと思われるので、日本の地方のムラには昔からこうした形での民主主義が存在していたことになる。

ただし、土手刈りの参加はあまり自発的なものでなく、「村八分」を恐れての半ば強制的なものである。ムラで行われてきた民主主義は、あくまで「長いものに巻かれろ」という民主主義なのである。

土手刈りを終えた日曜の午後は、ちょっと早い檀家のお盆回りを済ませた。応対してくださる檀家の皆さんはいずれも70代後半の「後期高齢者」の方ばかりである。もっとも、宗教に対する関心はある程度高齢にならないと出てこないのかも知れないが・・・。

さかのぼって、土手刈りの前夜(土曜夜)は、福井市で「昭和が見える食卓風景」の打ち合わせを行ってから、たまたま集まることになっていた後援会の女性たちとの食事会に合流した。皆さん、相変わらず意気軒昂でお元気なのには感心させられた。日本の男性は総じて元気がないのに、どこに行っても女性は元気である。

変わらない地方と高齢化する地方の2つの現実に直面した週末であったが、女性たちが元気なのには救われる思いだった。

裁判員制度について

 最高裁違憲判決について書いたら、裁判員制度についての書き込みが続いたので、簡単に裁判員制度について説明しておきたい。

 裁判員制度というのは、市民が裁判員として刑事裁判に参加するというものである。制度の目的としては、次の2つがあるように思う。

 1つは、裁判に市民の常識を反映させようというものである。その前提として、日本の裁判官には広い世間の常識が欠けているのではないかという批判がある。確かに、日本の判決には首を傾げたくなるものが多い。日本の裁判官は純粋培養のためか、法律のことしか知らない専門馬鹿が多く、広い視野が欠けているうえに、変に世論に迎合するところがある。昨年のブルドックソース判決はその代表例である。

 そのくせ、政府に反する判決を出すと出世できないと思って権力べったりの判決しか出さない。これでは何のための三権分立なのか分からない。

 司法判断に市民の常識を反映させるには、刑事事件でなく民事事件にも裁判員制度を広げるべきだと思うが、初めてのことであるので、取り敢えず、あまり専門的な知識が必要とされない刑事事件に限定したのであろう。

 もう1つは、市民に統治行為に参加してもらって、自分が主権者であることを自覚してもらうことである。ちょっと脱線するが、イギリスにパブリック・スクールと呼ばれる学校がある。直訳すると公立学校であるが、イギリスのパブリック・スクールは私立である。

 もともと、イギリスでは貴族の子弟しか教育を受けられなかった。ところが、産業革命が起きて、ブルジョアジーが台頭すると、自分たちの子供たちにも教育を受けさせようと、ブルジョアジーがお金を出し合って作ったのがパブリック・スクールである。つまり、パブリックとは本来、自分たちのことである。

 自分たちに共通の問題を身銭を出し合って解決するのが、民主主義の本質であり、市民が主権者であることの意味である。ところが、日本ではパブリック(=「公」)というと、お役所が税金を使ってやることになってしまっている。

 こうしたパブリックに対する日本人の意識を変えようという試みが裁判員制度の導入である。

 ところで、アメリカでは陪審員になるのは市民の義務と考えられている。アメリカにいる時、外国人の僕にも陪審員になりなさいという通知が何度も来て驚かされたが、自分には関係がないと放っておいたら、突然、「逮捕する」という通知が来たので、慌てて、裁判所に出かけて行って、自分は外国人であって、しかも、弁護士であるので、陪審員になる資格がないと釈明したことがある。また、アメリカの職場では、陪審員になるために明日からしばらく休むという職員がいると、皆で「市民の義務を果たしてきてください」と快く送り出していた。

 もう一つ、同じような趣旨の制度として、アメリカでは国民全員に確定申告を義務付けている。お陰で締め切りの4月15日近くになると、毎年、これは気の狂った制度で改めるべきだという合唱が全国から沸き起こるが、この制度の趣旨は国民全員に自分はTax payerだという納税者意識を徹底させることである。これも国民の主権者意識を育てるのに大きな役割を果たしている。

 日本の場合は、効率性を重視するあまり、こうした形での民主主義のコストを払うことをしてこなかった。そのツケをいま、民主主義の機能不全という形で払わされているのではないだろうか。