鳩山内閣の発足

 鳩山内閣が発足した。顔ぶれなどについては、マスコミで色々報道されているので、あえて書かない。おやっ、と気がついたことを書いておこう。
 まず、最初の閣議で「政・官の在り方」について申し合わせがなされたということである。「脱官僚政治」が鳩山内閣の最大の看板であるだけに当然といえば当然だが、第一に最初の閣議でこうした申し合わせをするという手回しの良さ、第二に「政・官の在り方」という文書の出来の良さから、結構、この内閣には期待ができるのではないかと思った。
 なぜかと言えば、官僚におんぶにだっこの自民党内閣では、閣議における手続きも閣議で使用される文書の作成もすべて官僚任せだったからだ。まさか、官僚を排するという文書を官僚に準備させる訳にはいかないから、この文書は民主党の議員かスタッフが書いたものであろう。すべてを官僚に丸投げしてきた自民党の中にはこうした文書をさらさらと書ける議員もスタッフもいない。ずっと野党であったため官僚に頼めなかった民主党はしっかり自前の実務能力を培ったようだ。
 事務次官の記者会見を禁じたのは両刃の剣である。大臣を通してしか情報操作できなくなった役所は大きく政治力を削がれることになる一方で、これまでよりもマスコミから厳しい質問攻めにあうことになる大臣は、うまく質問に答えられなければ無能呼ばわりされることになる。これからは、自民党政権下のように大臣をころころ変える訳にはいかなくなるだろう。本当に政治主導の政治を目指すならば、通らなければいけないいばらの道である。
 閣僚の記者会見をすべて聞いた訳ではないが、亀井郵政・金融担当相の記者会見はお粗末だった。郵政事業をどうするのかという青写真が全然見えてこないし、金融行政についても中小零細企業に対する貸しはがしを止めさせるという一点だけだった。この人にはすぐに有能なスタッフをつけないと、鳩山内閣の最初の躓きの石になるだろう。
 「密約」調査を命令した岡田外相の決断は正しい。「密約」があるのは、外交関係者の間では公然の秘密である。「密約」の中身には問題がない。日本の置かれた立場を考えれば、当然の約束である。問題は当然の約束を秘密にせざるを得なかったことである。この話は複雑でややこしいので、いずれ詳しく書くことにするが、もうそろそろ、国民に本当のことを話した方がいい時期だと思う。この際、「政」と「官」だけでなく、「政」と「民」の在り方も見直して、「民は拠(よ)らしむべくして、知らしむべからず」から、「民は知らしむべくして、拠らしむべからず」に転換すべきであろう。

民主党の圧勝

 衆院選民主党が圧勝した。理由については、報道メディアで色々報じられている通り、「とにかく、一度、政権を変えてみよう」という民意の表れであろう。自民党民主党の政策を詳細に比較した結果とは思われない。村上春樹が『IQ84』で表現した「自分には理解できない世の中」が登場してしまったという違和感。こうした訳の分からない世の中の変化に三代続いた御曹司内閣が対応できていないどころか、そもそも気づいていないんじゃないかという不信感が一挙に噴き出したというところだろうか。
 この政権交代の最大の効用は、自民党は決して下野しないという信仰が崩れたことだろう。裏返せば、政権交代は可能であるということであり、さらに、民主党政権が公約通り、マニフェストを実現することで、「政権が変われば、これだけ世の中も生活も変わる」ということを証明できれば、政治に対する不信感はかなり払拭されることになろう。ようやく、政治が「可能性の技術」("The Art of the Possible")になろうとしている。
 それにしても、これだけ全国に民主党の嵐が吹き荒れているときに、福井県だけは全選挙区で自民党が勝ったことには、驚くのを通り越して呆れてしまった。世の中の変化に鈍感というべきなのか、それとも、世の中がいくら変わろうと自分たちはこれまでと一緒でいいという驚くべき保守性の表れと理解すべきなのか。こんな政治風土で「変化」を唱えてどれだけ政治活動しても当選するわけがないとあらためて自分の不明を恥じた次第である。

「市民の常識」について

 前回のブログで「市民の常識」と書いたことについて、思いがけず、色々なコメントが寄せられたので、僕の考えをもう少し詳しく書いておこう。
 まず、ある特定のモデルに代表される「市民」なるものが存在しないことはその通りである。
 おそらく、Cさんであると思われるが、「社会契約論」を持ちだしているのは慧眼である。
 なぜなら、「市民の常識」はルソーが社会契約論の中で唱えている「一般意思」を想起させるからだ。ルソーは、個別意思の集合である全体意思と、一人ひとりが利己的な考えを捨てて全体のことを考えて到達する「一般意思」は異なるという。そして、ある特定の利害を代表するべく選ばれた議員による間接民主主義では多数決による全体意思しか実現しないので、全員が納得するまで話し合って「一般意思」に到達しうる直接民主主義の方が良いと結論づける。
 このルソーの考え方をさらに遡ると、プラトン哲人政治がある。衆愚政治を克服するためには、真理を極めた哲人による支配しかないというものである。
 ところが、この考え方を突き詰めていくと独裁主義に陥ってしまう。フランス革命直後のロベスピエールによる独裁に始まって、ヒットラースターリン毛沢東の独裁の根底には、「国民にとって何がベストか一番よく分かっているのは自分である」という独断があるのである。一時の狂気による多数の独裁もあるが、「国民とは私である」と宣言するカリスマによる独裁もあることを歴史は教えてくれる。
 したがって、僕はこの考え方、つまり、「一般意思」=「市民の常識」という考え方には組みしない。
 むしろ、「市民の常識」は、多様性の中から自然に集約されてくるものだと思う。
 譬えてみれば、インターネットにおけるウィキペディアのようなものとでも言っておこう。ウィキペディアというのは、誰でも書き込めるインターネット上の百科事典のことである。「高木文堂」と検索すると、誰が書きこんだのか、ウィキペディア上に僕についての書きかけの項目がある。ご丁寧にも「政界から引退することを明言した」と書かれているから、僕に二度と政治の世界に戻ってほしくない福井県内の人物が書いたものであろう。したがって、当然、バイアスがかかっている。しかし、僕がもっと著名な人物で、書き込む人の数が増えてくると、ある常識的な評価に落ち着いてくる。それが「市民の常識」というものではないだろうか。

 僕が「業界の常識」を批判するのは、むしろ、こうした多様性をその旺盛なロビー活動で押しつぶそうとするからだ。一人ひとりは自分の頭で考えているように思いこんでいるが、実はロビー活動に見事に洗脳されていることに気がつかない。要するに、民主主義においては、国民のレベル以上の政府は持てないということである。

 ところで、IQ84を読んで以来、すっかり村上春樹にはまってしまい、先週末とこの週末で「海辺のカフカ」と「ノルウェイの森」を読んだ。こうした作品を通して、「社会の中の個人の自由」に貢献したという理由でイスラエル文学賞であるエルサレム賞を受賞した村上春樹の受賞演説が素晴らしい。(ちなみに、原文の英語(http://www.47news.jp/47topics/e/93880.php)を探しだして、英語で読んだが、彼の英語は素晴らしい。)

 自分が小説を書く目的はただ一つしかない。それは、「システム」から個人の「生」を守るためであるというものである。確かに、システムをいかに改良したところで、個人の「生」を脅かしてくる。「システム」に関心を持つことよりも、個人の「生」に関心を持つことの方が大切かも知れないと、彼の小説を読んでいると思えてくる。

新しい「この国のかたち」(3)

ブログの更新を待っていてくれた人がいるようでとても嬉しい。今日も続きを書こう。

今日は、グリーンディール政策について考えてみよう。グリーンディールというのは、オバマ大統領が打ち出している自然エネルギーを核とした新しい環境ビジネスの立ち上げ構想のことである。環境技術では一日の長があるはずの日本がなぜ、環境問題でリードできなかったのか。それは、日本の政治が「業界の常識」で動いているからである。

自然エネルギーというのは、太陽光発電風力発電など自然の力でエネルギーを起こそうというものである。EU各国は2020年までに全エネルギーの20%を自然エネルギーで賄おうという目標をたてている。地球温暖化問題には後ろ向きと批判されることの多いアメリカでさえ、2020年に15%という目標をたてているが、日本は2014年までに使用電力の何と1.63%を自然エネルギーで賄うことを義務化しているにすぎない。

どうしてこうなるかというと、電力会社が原子力発電以外の新しいエネルギー源に投資したくないからだ。眼には見えないが、電力会社の政治力はすさまじい。2003年の福井県知事選挙では、「脱原発」を唱えた僕を落選させるために、沖縄電力を除く9つの電力会社が全国から福井県内に電話攻勢をかけたと聞く。電力会社から多額の政治献金を受け取っている自民党は電力会社の既得権益を守ろうとするし、電力労組の力が大きい民主党も同様に電力会社の既得権益を守ろうとする。結果的に、日本には自然エネルギーを促進しようという政治力が生まれてこないのである。

こうした政治状況を、僕は以前から、「業界の常識」で動く政治と呼んでいる。新党日本田中康夫氏が自民党議員は「業界派遣議員」であり、野党議員は「労働組合派遣議員」であると喝破しているが、まったくその通りである。こうした「業界の常識」に唯唯諾諾として従う議員ばかりが政治を行っているので、日本が世界の潮流から取り残されるのだ。

求められるのは「業界の常識」ではなく「市民の常識」で動く政治であり、「市民の常識」を代表する政治家である。しかし、悲しいのは、現在の日本では、「市民の常識」とはすなわち「無党派の常識」であり、「無党派の常識」は往々にして「ワイドショーの常識」となりがちなことである。

「ワイドショーの常識」に振り回されない「市民の常識」が生まれるまでは、新しい「この国のかたち」は生まれそうにないというのが、現時点での僕の結論である。

新しい「この国のかたち」(2)

続きである。

今日は、まず、都市と地方の格差について書いてみよう。これは、この10年間、僕が政治活動で取り組んできたテーマである。東京にお金を稼げる人が集まって、そこで稼いだお金を地方にばら撒くというこれまでの「この国のかたち」を何とか、変えることができないかと頑張ってきた。

10年間、頑張ってきた感想として、やっぱり無理かなぁと感じている。なぜならば、地方には(福井にはと言い換えるべきか)、知識社会の担い手たる知識ワーカーの絶対量が圧倒的に不足している。さらに、その少ない知識ワーカーを活かそうとしない。活かすどころか、寄ってたかって潰そうとする。知識ワーカーは知識社会における冨の源泉であるから、既得権益を牛耳っているボスたちを脅かす存在である。だから、ボス達とその意向を受けた狐たち(虎の威を借りる狐たちである)が、知識ワーカーを潰そうとするのである。この閉鎖的な体質を変えない限り、知識ワーカーの流出は止まらない。

地方から都市への知識ワーカーの流出に拍車をかけたのがグローバリゼーションだ。この20年間で最もグローバリゼーションの果実を享受したのは、ニューヨーク、ロンドン、上海、北京、そして東京などの大都市であることは疑いを容れない。昨年来の世界同時不況の中で、都市と地方の格差が全世界的な政治問題となり、旧来的なばら撒きが復活しようとしているが、これは本質的な解決ではない。

これまでも口を酸っぱくして言ってきているが、地方社会の担い手がグローバリゼーションと知識社会化に本格的に取り組まない限り、都市と地方の格差は広がるばかりとなろう。霞が関の発想としては、47都道府県の県庁所在地をすべて活性化するのは無理なので、道州制に移行したうえでその中心地(北陸では金沢市新潟市)の都市化に力を注ぐというものであろう。ちなみに、僕が提唱したのは、都市化が唯一の解決方法ではないというものだ。環境志向になりつつある新世代の知識ワーカーを呼び込むことに力を注ぐべきだと訴えてきたが、ほとんど理解されなかった。

次に、自由主義について。いまの日本の状況は、ファシズムに走ったドイツ国民の社会心理を見事に分析したエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」の状況に酷似している。圧政や弾圧の中では、人は束縛からの解放を願って自由を希求する。しかし、一旦、自由を手にすると、自由と表裏一体になっている自己責任の重さと将来の不安に耐えかねて、たとえ自由を失っても強力なリーダーの下での安定を求めるという。当時のドイツでは国会社会主義(ナチズム)を唱えるヒットラーを信奉して、破滅への道を突き進んだ。現在の日本のマスコミの論調は、小泉元総理と竹中元総務省が進めた自由主義的経済政策を糾弾するものが多い。確かに、自由主義の行き過ぎともいえる市場至上主義が世界的な金融危機を生んだのは事実であるが、日本における自由主義はまだまだ脆弱であるというのが僕の率直な感想である。より本質的には、日本社会では、いまだに民主主義や自由主義がきちんと理解されているとは思えない。大衆に迎合するワイドショー的ポピュリズムに走らずに、民主主義や自由主義をもう一度学びなおすときではないかと考えている。

今日は、このへんまでにしておこう。

新しい「この国のかたち」

長い間、ご無沙汰していて申し訳ない。

仕事が忙しかったせいもあるが、日本の政治というか、日本社会全般に失望していて、正直言って、あまり書く気になれなかった。

この間、色々なことがあった。あり過ぎて、どう整理したらいいか分からないというのが、大半の人の感じではないだろうか。

この辺をうまくついているのが、村上春樹の「1Q84」である。

自分がおかしくなっているのか、世の中がおかしくなっているのか、とにかく、自分が生きざるを得ない世界はこれまでの世界とはまったく異なる理解のできない世界であるという漠然とした違和感をうまく表現している。

世の中が混沌としている。

これまでのモノサシが当てはまらなくなっている。

衆議院が解散されて、投票日まで各政党が日本の状況をそれぞれの視点で「見える化」する競争が始まる。

民主党は、「政権交代」か否かという切り口で「見える化」しようとしている。

自民党は、「責任政党」か否かという切り口で「見える化」しようとしている。

村上春樹は、「何だか訳の分からない世界が突然、現れた」という形で、世界を「見える化」した。どんな世界かは語っていない。「リトルピープルが牛耳る世界」という巧妙な逃げ方である。ちょっとずるい。

政権交代」にしても、「責任政党」にしても、選挙向けには有効な切り口であるが、どんな日本にしたいかは見えてこない。

頭の中を整理するために、どんな日本にするのか、あるいは、なっていくのか僕なりに書いてみよう。

まず、グローバリゼーションにどう対処するのかということ。

これは結論が出ている。もはや、国を閉じることはできない。

ただし、方法が異なる。

これまでは、先進国相手にもっぱら高級品を売る戦略だった。ところが、先進国のバブルが弾けて、これまでのように高級品は売れない。

これからは中国やインドなどの新興国向けにローテクの商品を売る時代である。高スペックのものはいらない。余計なスペックは削ぎ落としたローテクの製品をいかに安く提供するかという競争になる。

産業界はすでにシフトしつつあるが、ハイテクである必要がないのだから、地方の中小零細企業にもチャンスがある。とにかく早く出ていくことだ。

次に、知識社会にどう対応するかということ。

これも結論が出ている。知識化を進めるしかない。

僕自身、この1年半、相当苦労した。予想以上にネット社会が進んでいて、戸惑うことが多かった。勝間和代さんの本が売れるのは、ネット社会における知識ワーカーの働き方を分かりやすく解説しているからだ。デジタルデバイドと言われるが、デジタルデバイドには2段階あるような気がする。第一段階はキーボードを使えるかどうかというもの。僕はこれはクリアしていた。第二段階はインターネットを使いこなせるかどうかというもの。このハードルは大きい。かなり慣れてきたものの、物心ついたときからインターネットがあった世代とはまだ相当ギャップがある。

ただし、これは情報の集め方の問題であって、考え方の問題ではない。インターネットで検索ばかりしていると、コピペばかりして自分の頭で考えられなくなる。
この2つのスキルをバランスよく教えていくことが、これからの教育の課題である。

こう書くとすぐに政策論を求められそうなので書いておくと、小中高レベルでは思考力の基礎となる「読み、書き、ソロバン」をこれまで通り愚直にやれば良いと思う。

まだまだ、書くことはあるが、今日はこのくらいにしておこう。

米大統領選挙が意味するもの

 予想通り、民主党オバマ氏が大差で当選した。いろいろな意味で意義深いが、他のメディアで書かれていないと思われることで、僕なりに感じたことをいくつか書いておきたい。
 まず、基本的に、今回のオバマ氏の勝利は、アメリカの政治の周期的な動きに沿ったものであること。簡単に言うと、アメリカの政治は、自由放任主義レッセフェール)と格差是正の間を振り子のように揺れる。自由放任主義レッセフェール)、あるいは、最近の言葉で言うと、市場至上主義の下で、貧富の格差が拡大すると、必ず、格差是正を掲げる民主党の大統領が当選する。1920年代のバブル(そして大恐慌)直後のルーズベルト大統領、戦後高度経済成長後のケネディ大統領、レーガノミクス後のクリントン大統領、そして、今回のオバマ氏である。
 次に、米国発の世界的な金融危機と併せて、今回のオバマ氏の当選は、再び、ケインズ式の経済政策への回帰を意味すること。レーガン大統領の下でのサプライサイド経済が成功して以来、財政出動によるケインズ式の経済政策はすっかり影をひそめ、もっぱら貨幣供給量を重視するマネタリズムが経済学と経済政策の世界的主流となってきた。ところが、サブプライムローン問題に端を発する今回の世界的な金融危機で、これまで世界経済の成長を牽引してきたのは、80年代から一貫して続いてきたドル本位制のスーパーバブルであったことが明らかになったのである。
 詳しい説明はややこしいので避けるが、信用拡大によるスーパーバブルという需要があって初めて、財政出動による有効需要の創出よりも供給サイドの生産性の向上に注力できるわけで、アメリカにおけるスーパーバブルが弾けてしまうと、これを埋め合わせるだけの有効需要を米国も含めた世界各国が財政出動で生み出さなければ、世界同時不況に陥ってしまう。つまり、ケインズが構築した「一般理論」の前提である1930年代の世界経済とまったく同じ状況になっている。
 この世界的状況の変化が日本の政治に及ぼす影響は大きい。なりふり構わぬ選挙対策だった麻生政権の景気刺激策が、世界的な需要不足の中での正しい経済政策として、また、世界同時不況を回避するための国際的な協調行動として正当化されるからである。したがって、今回の解散延期は麻生政権にとっては正解になろう。それで、政権交代が実現できないとしたら、日本にとっては長期的に不幸なことであるが…。